邪悪になるなかれ

発達障害者から見える定型発達者はとても邪悪な存在だ。
インターネットで発達障害者の言葉を見ると、
誰もがそう思うようだ。 これは不思議な事だ。

社会に適応するにあたり、
邪悪さを身に着けたほうがいいのではないか、
と思うことは多々あるけれども、
大体うまくいかない。

感じるのは、邪悪だとみなされることは不便だということだ。
邪悪な人間だと思われると損をすることが多い。
我々はただでさえ多くのミスを許してもらわなければ生きられない。
邪悪である、という印象を持たれることは致命的だ。

邪悪であると思われないための最もシンプルな方法は、
やはり、邪悪にならないことである。
定型発達者たちの中では、邪悪であっても許し合えるルールが有るようだ。
しかし、我々は所詮それを真似出来ない。
あれが許されるならこれも、などと考えると、必ず間違える。
あそこには、何か深遠かつ壮大なルールが定められているのだ。
我々はそれを理解することができない。

Don't be evil.
やはりグーグル先生はいいことを言う。

完了の動作をする

ADHD者の必須ツールとしてよく言われるリマインダーだが、
うまく使えていなかった。

指定の時間に通知が出るまではいいんだけど、
それを無視してしまう。
先延ばし傾向が強いのだと思う。

で、いままでGoogle keepでリマインドをやってたのだけど、
iosのリマインダにしてから少しましになった。
時間になったらその行動をして、完了のチェックを入れるというイメージがついた。

Google keepでなぜうまくいかなかったのかというと、
完了の動作がわかりにくかったからだと思う。
終わったらアーカイブとか削除とか、ちゃんと定義しておけばよかったのだけど。
リマインダはチェック入れるだけだからわかりやすい。

あと、バッジっていうUIが大嫌いで、
あれを消すためにチェックを入れないといけない、
そのために行動をしないといけない、
というのがモチベーションになっている。
バッジ、本当に嫌いで、
あれが出るかもしれないという理由で通知許可ほとんどしないのだけど、
役立つ時もあるのだな、と思う。

妥協してない(ことにする)

生活の中に一切妥協はなく、
全て確信を持って選択している、
と思い込むことにしてみた。

そのほうが幸せに過ごせる。
自己実現の形として、「妥協せずストイックに物事に取り組む自分」というものがあるのだと思う。
妥協していない自分に気持ちよくなれる。

だらだらするのも、妥協の結果でなく、
今最も必要なのは休息であるという確信のもと、
だらだらしていることにする。
そうすると、変な罪悪感を抱え込むこともなく、
純粋に休息することができる。

妥協しないなんてことは不可能なんだけど、
妥協していないと思い込むことはできる。
確信を持って選択したことになってしまうから、
本当に妥協しづらくなるという効果も感じている。
言い訳も出なくなる。

本当は、頭に思い浮かぶいろいろに振り回されて、ふらふら行動しているだけで、
妥協していないなんて思い込みは茶番だとわかっている。
それでも、明らかに気の持ちようが違う。
人生は思い込みで動いているということを実感するばかりだ。

駄目なものを駄目と言う環境

この間、クオリティの高い演劇を見る機会があった。
小さいチームだけど、一人一人のクオリティが非常に高いと感じた。

こういうものって、
チーム内で駄目と言い合う環境がないとできないよな、と感じた。
個人でレベルを高めていくのも、ある程度はできるけど、
やっぱりどこかで頭打ちになる。
本人では気づけない何かに気づいてくれる人が必要になる。

駄目と指摘するにもクオリティがあって、
クオリティの低い駄目出しはないほうがマシなのだけど、
良いものを作り上げるには、クオリティの高い、正しい駄目出しがどうしても必要になると感じる。

計画する

未来の自分の動きを予想することである。
未来の自分の動きを策定することではない。

その場の衝動で何をしだすかわからない自分の動きを、事前に予想しておく。
それによって、未来に起こる問題を事前に察知する。
経験が少し先の未来を教えてくれる。
計画とは小さな魔法だ。

未来の自分の動きを策定することではない。
ものごとをいつ完了させられるか聞かれたとき、
今すぐ取り掛かり、途中で誰の邪魔も入らず、何にも気を取られず、
ものごとを進めたときの時間を考えてしまう。
それは計画ではない。
願望である。
予想すれば、そんなことはあり得ないとすぐにわかる。

無数の「どうせこうなるだろう」から一番マシなものを選び取る。
いや、それすらも傲慢かもしれない。
選び取るという行為が計画を願望に変えてしまうかもしれない。
ただ、「どうせこうなるだろう」とぼんやり考えておけば、
我々の無意識がその中から一番マシなものを選び取るに違いない。
それが計画するということだ。

ADHDの我々に自分の行動を策定することなどできない。
そもそも我々が策定しようとする、計画のつもりの願望は、往々にして狂っている。
とても実現不可能なそれを、実現できなかったといって落ち込む。
そして何より、我々は策定した通りに動けない自分自身に慣れてしまっている。
本当の意味で反省して、次に生かすことなどできない。

そうではない。
計画とは、未来の自分の動きを予想することである。
未来の自分の動きを策定することではない。

趣味開発する

ひさしぶりにプライベートでそこそこの規模のものを作ることにした。

ここのところ、ごく小さいものを除いては、
プライベートで開発をやることってなかった。
本当にどこからもお金をもらう予定なく、
純粋に趣味としてプロダクトを作るのはたぶん2年ぶりくらい。

やろうと思った理由はいろいろある。
仕事では作りたいものばかり作れるわけじゃないっていうフラストレーションとか、
生活面の変化が少し落ち着いてきてものを作るモードに入れそうなこととか、
ここらで一つ、現時点のポートフォリオになるものがほしいとか。

小さく作りはじめるつもりだが、
今の忙しさからすると、たぶん3月くらいまでかかる。
とてもわくわくしている。
計画しているときが一番楽しくて、
始まるとやる気がなくなっていくのが悪いパターンなので、
気をつけなければ。

適度に散漫にする

注意力散漫なので、一つのものに完全に集中して、
他のものに気を取られない環境を作ることが理想と思っていたが、
そうでもないかもしれない。

この間、気づいたのは、
作業中に音楽がかかっているほうが効率が良いときがある。
頭の中で忙しなくくっちゃべってる声が聞こえづらくなるのだ。
少なくとも作業開始のタイミングでは、音楽がかかっているほうが、
頭の中の声に気を取られて他のことを始めてしまうことが少なく感じる。

究極まで集中するときは、瞑想したりして、
頭の中を完全に黙らせて、完全な静寂の中やる必要があるが、
実際、それができるコンディションを常に整えられるなんてことはない。

最近は、家での作業中は、
iTunesラジオでひたすらMike DのEcho chamberを聴いている。
あれぐらいの喧騒がちょうどいい。